【青天を衝け】原作モデルの渋沢栄一とは?画像プロフィール経歴・生涯まとめ

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こんにちはNarseです。

 

2021年の記念すべきNHK大河ドラマ「青天を衝け」

放送日が2021年2月14日からで、史上初の2月放送開始となります。

 

主演は吉沢亮さんで、大河ドラマ初の平成生まれなんですよ。

渋沢栄一さんと言えば、新しく1万円札になった人というイメージが強いですよね。

 

初めてずくしのドラマですが、ここでは渋沢栄一さんの経歴や生涯など掘り下げていきますよ。

最後までご覧いただけると嬉しいです。

 

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【青天を衝け】原作はある?

 

青天を衝け(せいてんをつけ)はNHK大河記念すべき第60作目。

渋沢栄一を主人公に、幕末から明治までを描いていきます。

 

青天を衝け詳細情報

放送開始日・放送時間2021年2月14日(日曜)   45分間
放送時間NHK総合:20:00  BSプレミアム:18:00 BS4K:21:00
再放送NHK総合:13:05   BS4K:8:00
脚本大森美香
製作総指揮菓子浩
番組HPhttps://www.nhk.or.jp/seiten/
Twitterhttps://twitter.com/nhk_seiten

 

コロナの影響で放送開始が異例の年越しとなりましたが、終了時期については明言していません。

 

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主演の吉沢亮さんはどんな人?

主演の吉沢亮さんは、東京出身の26歳。

若手ながらドラマ・映画に多数出演し、2019年「キングダム」での演技が評価され、ブルーリボン賞助演男優賞・日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞した実力派俳優。

最近では「空の青さを知るひとよ」で声優に挑戦し、高い評価をえています。

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NHKの出演は2019年朝ドラ「なつぞら」で、なつの初恋の人で幼馴染の天陽を演じました。

 

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ここでの演技が評価され、今回の青天を衝けに抜擢された一因にもなったようなんです。

気さくな性格で、コントにも参加。

 

 

イケメンなのに、どんな事にも体当たりで向き合付ている吉沢さん。

今回の大河も不安は多いが、一生懸命やると意気込みを語っていました。

 

 

実力も十分に備わっている吉沢さん。

様々な意見もありますが、きっとそれを覆すような演技をみせてくれると思います。

 

 

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1万円札に選ばれたのが「後押し」となった

渋沢栄一が1万円札の顔にえらばれたのが、2019年4月の事。

 

出典:ウイキペディア

 

製作統括の菓子さんは、

「今の閉塞感が感じられる時代だからこそ、大きな時代のうねりを描きたいと思って、幕末から明治を題材に選んだ」

と話をしています。

 

また渋沢栄一さんが、一万円札の顔になる事が決まった事も後押しになったと話していました。

確かに1万円札の人の物語といえば、話題になりやすいですよね。

 

 

原作はある?

原作の事はどこにも提示していませんでした。

 

題材やタイトルを考えたのは、連続テレビ小説「風のハルカ」「あさが来た」などを手掛けている大森美香さん。

今回大河の脚本を手掛けるのは、初めてです。

 

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※右が大森美香さん。

 

今回の青天を衝けは、渋沢栄一さんが詠んだ漢詩の一節「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」からとったそうなんですよ。

意味は”青空をつきさす勢いで肘をまくって登り、白雲をつきぬける気力で手に唾して進む”だそうです

 

青空を衝く勢いで時代を駆け抜けた、血気盛んな人間味あふれる一人の男として、カッコいい面も、そうでない面も、丁寧に描いていけたらと思っています。

引用:NHKPR

 

困難があっても前を向いて生きた渋沢栄一を、大森さんの脚本でどんな風に生き生きと描いていくのか楽しみです。

 

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【青天を衝け】原作モデルの渋沢栄一とは?画像プロフィール

続いてモデルとなった渋沢のプロフィールや生い立ちをお覗いてみましょう。

渋沢栄一生い立ち

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<渋沢と青い目の人形>出典:ウイキペディア

生誕1840年3月16日
死没1931年11月11日(満91歳没)
出身武蔵国樺澤郡血洗村(現埼玉県深谷市血洗島)

出典:ウイキペディア

 

血洗島は今も存在しますが、すごい名前ですね。初めてしりました。

血洗島(ちあらいじま)出身の渋沢は「赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗った」という言い伝えがある事を、龍門雑誌に記載しています。

 

渋沢栄一の生家は養蚕と藍玉を兼営し米麦野菜もてがける豪農でした。

かなり裕福な家だったようですね。

 

幼少期は栄次郎と呼ばれ、幼いころから父とともに信州や上州へ仕入れと販売を行い、14歳には一人で行えるようになりました。

これがのちに合理主義思想につながったといわれています。

 

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農民から武士になる

父の仕事を手伝いながら、父の勧めで読書をはじめ、儒学を学びました。

同時に剣術を極め、1861年江戸にでて、武術と儒学の修行を続けます。

 

尊皇攘夷の思想に目覚め、幕府を倒そうと計画したが、従兄弟の説得でやむなく中止しました。

京都へ下り最後の将軍一橋慶喜に仕える事になったのです。

 

そこから運命が動き出します。

 

1866年主君の慶喜が、将軍になった事で自身も幕臣となりました。

1867年慶喜の名代としてパリ万博に出席する慶喜の異母弟・徳川昭武とともに、御勘定格陸軍付調役としてフランスへ渡米。

ヨーロッパ各国を訪問しています。

各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受けました。

 

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若き頃の渋沢栄一

若き日の渋沢は父の影響で学問を学び続ける真面目さと、行動力にあふれた人という事がわかりますね。

 

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大政奉還が運命を変える

1867年大政奉還のため、新政府から帰国するよう命じられました。

静岡で謹慎していた慶喜に「自分の道をいきなさい」と言われ、フランスで学んだ株式会社を実践すべく、1869 年に静岡で商法会所を設立。

 

しかし大隈重信に諭され、大蔵省に入省。

国家公務員として、お札を作る紙幣寮のトップになりました。

 

<大蔵省時代の渋沢栄一>出典:ウイキペディア

 

当時明治のお金明治通宝を使用した、偽札つくりが横行していました。

偽札を作れないような紙幣を目指していましたが、予算編成で大隈や大久保利通と対立。

 

1873年33歳の時に、大蔵省を退官しています。

一旦は政治や官僚の世界に身をおいた渋沢栄一。

 

幼いころから商売を手伝い、自身で考え行動して成果を上げるほうが、水に合っていたのかもしれませんね。

 

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【青天を衝け】渋沢栄一の経歴・生涯まとめ

渋沢の経歴や生涯を覗いてみましょう。

 

商売人として成功する

30代からの渋沢は、水を得た魚のように商売で実力を開花させていきます。

大蔵省時代に設立を指導していた、第1国立銀行(現みずほ銀行)の頭取に就任。

 

実業界に長きにわたり身を置くことになりました。

地方銀行の設立の指導をはじめ、様々な会社の設立に尽力したのです。

 

・東京海上日動火災保険
・王子製紙
・東急
・太平洋セメント
・帝国ホテル
・秩父鉄道
・キリンビール

 

多種多様な会社の設立に関わっていますね

その会社は500を超え、「日本資本主義の父」と言われる所以なんです。

凄い事は、いまだ第1線で活動している会社ばかりだという事なんですよ。

 

1909年70歳で財界引退を表明し、第1銀行を除く会社役員を辞任しました。

これも彼なりの持論があったからこのなんです。

 

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道徳経済合一説

渋沢は様々な経済に関する本を出版し、今でも経済の礎ともいえる言葉を数多く残しています。

 

経済に関わる人には、今でも通じる言葉をたくさんのこしています。

 

 富をなす根源とは何かといえば、仁義道徳。この道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ
引用:論語と算盤

 

経済を発展させるには自身の利益ばかり発展するのではなく、国全体を豊かにするため富は全体で共有するものとして、社会に還元することを説きました。

どうしても商売すると、稼ぐ事・利益ばかり優先しがちなんですが、それでは経済は回っていかない事。

 

国が潤わないと経済の発展はしていかないと、今の経済を見ていても本当そうだと思います。

渋沢自身財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設しましたが、これは私自身の死後の財産争いを防ぐため便宜的に設立したもので、保有する株はほとんどなかったそうです。

 

自分の利益よりも国の経済を優先させていた事だけでも、すごい事と思いませんか?

渋沢の言葉はビジネスマンのバイブルとして、ぜひいつまでも受け継がれていきたいですよね。

 

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社会貢献活動

社会活動にも熱心に参加していた渋沢。

東京都からの要請で、養育院(現東京都健康長寿医療センター)の院長をつとめ、日本赤十字社・財団法人聖路加国際病院初代理事長や、障害者教育にも力を入れ、滝乃川学園初代理事長を務めました。

関東大震災の時には、復興のため大震災善後会副会長となり、寄付金集めなどに奔走しています。

 

 

<左が渋沢栄一>出典:ウイキペディア

 

また実学教育も必要と考えた渋沢は、商法講習所(現一橋大学)・大蔵商業学校(現 東京経済大学)の設立に協力。

 

同志社大学の設立のため、寄付金集めに奔走したり、男尊女卑の残っていた女子教育の必要性を考え、伊藤博文・勝海舟ろとともに、女子教育奨励会を設立。日本女子大学・東京女学館の設立に携わっています。

国際交流にも力をいれており、1924年日仏会館を発足。

 

1927 年日本国際児童親善会を設立し、アメリカ人形と日本人形を交換するなど交流を深めている。

1931年中国で起こった水害のために義援金をつのるなど、民間外交の先駆けとして活躍しました。

 

それが評価され、1926年と1972年にノーベル平和賞の候補にもなっています。

まさに青天を衝けのように、まっすぐ自分の思う考えを貫き、自分も周りの人もしあわせにしてきたひとなんだと思います。

 

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たくさんの家族に囲まれた晩年

渋沢2回の結婚を経験。

最初の妻千代は渋沢と従妹同士で3人の子供に恵まれたが,コレラで死去しています。

 

後妻となる兼子は、夫と離縁したあと芸者になるため、両国の口入れ屋に頼んだところ、渋沢の妾口の話がもちあがり、再婚しました。

4人の子供に恵まれ、渋沢の摘出子は合計7人となりました。

しかし渋沢は女性関係が派手で、庶子を含めると20人はいたと言われています

 

一時期正妻と妾が同居していた事もあったそうなんですよ。

いい部分がたくさんクローズアップされていたので、渋沢も男なんだなと思ってしまいました。

 

晩年の渋沢栄一 出典:ウイキペディア

たくさんの家族に囲まれ92歳でその生涯を東京で閉じています。

 

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【青天を衝け】原作モデルの渋沢栄一とは?画像プロフィール・まとめ

2021年2月から始まる、「青天を衝け」。

資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一をモデルにした大河ドラマです。

 

渋沢栄一が1万円札に選ばれたことも後押しになりました。

青天を衝けの原作はなく、脚本家の大森美香さんが、渋沢の詠んだ漢詩の一節より名前をとっているんですよ。

 

青天を衝く勢いで時代を全力で駆け抜けた、渋沢の生涯にぴったりな題名だと思います。

埼玉県の田舎の農業の家に生まれた渋沢は、父の教育方針から早くから勉学や読書を学びました。

 

仕入れや販売など10代から自分で行い、商売の基本や考え方の礎となりました。

農民から幕末にかけて幕臣になり、大蔵省にはいり紙幣局で采配を振るうものの、数年で退官します。

 

その後資本主義で大切な株式会社設立に携わり商売人として成功をおさめますが、自身の利益ばかり発展するのではなく、国全体を豊かにするため富は全体で共有するものとして、社会に還元することを説きました。

 

渋沢は会社だけでなく社会貢献活動にも力を注ぎ、今のビジネスマンのバイブルともなる書物をたくさん残しています。

まさに青天を突き抜けるように、91歳の生涯を生き抜いた渋沢栄一さん。

 

今回のドラマで大河初主演となる吉沢亮さんが、どんな風に渋沢栄一を演じるのか今からとても楽しみですね。

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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