三浦春馬・映画【天外者てんがらもん】意味や由来とは?五代友厚の生涯を解説

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こんにちはNarseです。

 

2020年7月18日惜しくもこの世を去った三浦春馬さん。

映画での遺作となってしまった「天外者てんがらもん」が、2020年12月11日に公開されます。

 

江戸末期から明治中期にかけて、大阪の経済を立て直した、五代友厚(ごだい ともあつ)

三浦さんは五代の役を演じました。

 

ここでは、てんがらもんの意味や由来、五代友厚の生涯がわかりますよ。

映画を見る前の情報として、ぜひご覧いただけると嬉しいです。

 

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【天外者てんがらもん】意味はなに?

 

「てんがらもん」という言葉は初めて私は聞きました。

調べてみると、鹿児島の方言であることが、わかりました。

 

  • 功績をあげたひと
    お利口さん
    感心な子
    いたずら小僧   

出典:鹿児島ネット辞典

 

由来として「天からの子」「手柄者」など諸説あるようです。

お利口さんといたずら小僧って正反対の意味に見えるので、不思議ですが、方言としては上手に使い分けているようですよ。

この映画では凄い才能の持ち主という意味で、使われているようですね。

天外者:元リンク

てんがらもんの名前の由来

由来は「天からの子説」「典雅なもの説」「手柄者説」など諸説あるそうです。

どれも肯定的な意味になりそうです。

 

子供に向けて使う事が多く、唯一無二の存在であるといった時の表現方法として、現在も使われているようですよ。

三浦春馬さんも才能に満ち溢れた人でした。

まさにてんがらもんです。

 

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【天外者てんがらもん】映画の由来とは?

五代友厚さんの生涯を描いた映画ですが、何故『天外者』という題名にしたのでしょう。

 

映画のタイトルは、鹿児島の方言で「すごい才能の持ち主」を意味する「てんがらもん」(仮称)。田中さんによると、その言葉を示す漢字はなく、語感を生かして「天外者(てんがらもん)」を当てる。

引用:西日本新聞

 

鹿児島と言えば西郷隆盛が有名ですが、五代友厚は日本の商業の発展に深く貢献した人物でした。

日本での経済の礎になったといっても過言ではないのです。

そんな思いも込めて映画のタイトルをつけたようですよ。

 

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市民の思いが映画をつくりあげた

地位も知名度も十分ではない、五代友厚。

「見返りも名声も求めなかつた男」として、日本経済の発展のために貢献したのです。

そんな志に感銘した市民たちが、五代友厚の功績を称える映画を作りたいと、2013年「五代友厚プロジェクト」を立ち上げたのです。

 

五代友厚プロジェクト

 

このプロジェクトの総指揮をとったのが、廣田稔さんです。

 

廣田稔

出典;五代友厚プロジェクト

氏名廣田 稔(ひろた みのる)
生年月日昭和21年10月12日(2020年9月現在74歳)
出身熊本県人吉市
最終学歴鹿児島大学法学部卒
職業弁護士 廣田稔法律事務所

住所:大阪府大阪市北区西天満5丁目16−3西天満ファイブビル10階

TEL:06-6365-6588

 

なぜ弁護士の先生が、映画製作に携わっているのか不思議ですね。

廣田氏は「あるべき日本の姿」というHPを立ち上げました。

 

HPはこちら

 

ここでのコンセプトは映像で未来遺産を作る事と、文化を創造する事。

映画作成や森林保全などにも力をいれていきたいと語りました。

その思いに賛同した企業や個人の人たちと活動をしています。

 

映画作成は映像として形に残す事により、将来文化創造を担う人の人材育成の一つとなってほしいと思いを語っています。

映画作成はこれが初めてではありません。

2007年に「北辰斜めにさすところ」を作成しました。

 

廣田さんが現代のシステム化が進んだ教育に疑問をもった事により、脚本家の室積光さんがその思いを実現。

旧制第七高等学校「造士館」(現在の鹿児島大学)が舞台で、規律正しい生活の大切さや野球の交流試合を通し、限りある時間の中で、青春を謳歌した若者たち。

その後戦争に突入。

戦後から現代までの彼らのその後を描きました。

 

そこの寮歌となっていた「北辰斜に」がモチーフになっています。

未来の子供達に、こんな時代があった事を伝えられるいい映画なのではないでしょうか?

興業収入が気になるところですが、廣田さんは映画作成に独自の方法をとっています。

 

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五代友厚プロジェクトで市民や企業からの寄付を募る

映画作成には多大なお金がかかるといわれています。

廣田さんは、五代友厚プロジェクトを立ち上げ、映画を実現するために定期的に「五代友厚が現代に生きていれば何をするのか」をテーマとして掲げイベントや地域貢献につなげていました。

ご賛同・ご参画いただく皆様と共に、五代友厚の精神を未来へ継いでいくことこそ、本プロジェクトの成果であると語っています。

その思いに賛同した人の寄付を募る取り組みをしています。

 

寄付・協賛・出資金

協賛金金額内容
映画製作寄付協賛金1口 500万
  • 映画公開ポスター、映画公開配布チラシ、公式パンフレット、本編エンディングロール、公式WEB&SNS、 映画宣伝メイキングテレビ番組エンディングロール、DVD&ブルーレイパッケージに社名及びロゴ掲載 (クレジット表記)、メイキングビデオのエンディングロール(DVD&ブルーレイ)
  • マスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)、交通広告等々映画宣伝における露出
  • 映画製作発表会(プレス発表会)、映画公開全国宣伝キャンペーン、広報PR誌、各種販促物等における露出
  • 映画完成時の披露試写会、映画完成披露パーティーへのご招待(特別限定試写会等を検討する)
映画製作寄付協賛金1口 100万
  • 映画メイキングビデオ(DVD&ブルーレイ)、公式パンフレット、公式WEB&SNS に、社名の掲載 (クレジット表記可)
  • 映画完成時の披露試写会に招待(1組2名~)
映画製作寄付協賛金1口 50万
  • 映画メイキングビデオ(DVD&ブルーレイ)、公式パンフレット、公式SNS に、社名の掲載 (クレジット表記可・フォント縮)
  • 映画完成時の披露試写会に招待(1組2名~)
映画製作委員会への出資金1口500万~映画製作委員会の構成メンバーとなる。ご出資手続きに関しては、事前に出資合意書を交わし、映画公開 までに共同事業契約書を締結するという運びになります。

 

色々な形での貢献の仕方があるのですね。

五代友厚プロジェクトでは、映画で取り上げてほしい内容などを、委員会で意見交換する場面もありました。

 

自分達の思いが映画に採用されたら、こんなに嬉しい事はないです。

長い期間をかけてみなさんの賛同を得ながら、素晴らしい映画の実現につながっていきました。

製作総指揮である廣田さんをはじめ、市民や企業の思いは感慨ひとしおでしょう。

 

 

実際にプロジェクトメンバーが広報活動したり、メンバーを称えるツイートも多かったですよ。

12月の公開が楽しみですね。

 

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【天外者てんがらもん】五代友厚の生涯を分かりやすく解説

Shoin Godai Tomoatsu.jpg

出典:ウイキペディア

幼少・青年期

天保5年(1835年)薩摩藩鹿児島城下。五代家の次男として出生。幼少期の名前は才助。

薩摩藩記録奉行であった父親は「三国名勝図会」作成に貢献した人物で、かなり裕福な家でした。

 

友厚が14歳のとき、父親が薩摩藩当主島津斉彬から、ポルトガルから入手した世界地図の模写を依頼され、友厚に命じた。
友厚は興奮し熱心に模写をしました。
同じものを2枚模写し1枚は自分の部屋に飾り、さらに絹に地図を写し、地球儀を自作しました。
世界は広いと憧れをもったそうです。

武士・役人期

嘉永6年(1853年)ペリーが、黒船で浦賀港に来航すると、日本中が騒然となりました。

黒船にみんなが言葉が、通じず戸惑う中、友厚は「男児志をたてるは、まさにこの時なり」と奮起。
西洋文学を学びたい思いを強くしたそうです。
安政2年(1855年)薩摩藩の郡方書役助(当時の農政をつかさどる役所の書記官の補助)となり、同年4年郡方書役となります。若干20歳での大抜擢でした。相当頭がよかったのでしょう。
安政4年(1858年)「長崎海軍伝習所」江戸幕府が海軍士官養成のために長崎に設立した教育機関)の1期生として長崎に派遣。
発案者の勝海舟に出会い、オランダ軍人から航海術や西洋流学問を学びます。
この時たくさんの刺激を受け、海外への憧れがますます強くなったようですね。
文久2年(1862年)長崎で渡航を懇願するも乗船拒否を受ける。
そこで水夫として幕府艦千歳丸(貿易船)に乗車し上海に渡航。

この時長州藩高杉晋作と出会い交流します。
上海で外国人たちが活発に交易をしている姿に衝撃を受け、藩として汽船購入の契約をしてきました。
文久3年生麦事件より、イギリス軍が薩摩を攻撃しに向かっていると知ります。(のちに薩英戦争)
イギリスと戦っても勝ち目はないと考えた五代。
直談判し賠償金1万ポンドを払い自分が切腹しようと考えた。
すごい地元愛ですよね。自分が犠牲になってでも”国を守らなくては”と必死だったのでしょう。
戦うのではなく話し合いを目的にし、海外経験のある松木弘安、通詞の堀孝之とともに、3隻の船で敵を待ちました。
そして船ごとイギリス側の捕虜となりました。
この時薩摩の戦力について聞かれ、昔から武勇で知られ陸戦を得意とし、苦戦するに違いないと説明。
イギリス軍も薩摩に大きな損害をださずに、五代達は横浜で50両とともに開放され江戸に入りました。
こんなに藩のために頑張った五代ですが、捕虜になった事で藩から冷たい目でみられ、帰郷できず潜伏生活を送る事になりました。
名前も変えざるを得なかったのです。
普通だったら、戦争から守ったヒーローなのにひどい話です。

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憧れの外交そして貿易商売に携わる

文久4年(1864年)帰藩した五代。
慶應元年(1865年)五代は念願であった薩命として、薩摩藩遣英使節団としてイギリスに派遣します。
画像:薩摩藩英国留学生記念館(出典:ウイキペディア)
留学生15名と五代を含む3人の視察係と通訳1人計19名で渡航しました。
イギリス各地を視察し武器だけでなく、グラバーとの交流のなかで産業にも興味を抱きます。
紡績機械をこの時購入しました。
慶應2年(1866年)帰国後薩摩藩の交易や商事を担う、会計係に就任
長崎ではグラバーと協力して「小菅修船場」ソロバンドックと呼ばれるものを設立。
昔は貿易が船が主だったので、修理工場のようなドッグがあったら貿易をしている長崎では、需要は国内外からもあったでしょう。
さすが五代には先見の明があったのですね。
海外での功績がみとめられた五代。
明治元年(1968年)新政府の参与職外国事務掛に就任しました。
海外での経験をいかし、外国人とのもめごと解決に引っ張りだされるようになりました。
1868年神戸事件(備前藩士によるフランス水兵襲撃事件)
1868年堺事件(土佐藩士によるフランス水兵襲撃事件)
1868年パークス襲撃事件(天皇の謁見に行く途中イギリスの外交官が、暴漢にあう)
暴力ではなく、対話で解決していった五代の功績ははかりしれないと思います。

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本格的に実業家の道へ

明治元年5月五代は大阪に造幣局を誘致しました。
初代大阪税関長となりますが、明治2年5月会計官権判事という役目で横浜への転勤を命ぜられます。
実質的に左遷です。
理由は定かではありません。
ただ血の交わる戦いをしてきた男たちにとり、五代のような男は虫が好かなかったかも知れませんね。
当然五代も居心地が悪く明治2年7月に、造幣局を退官しました。
明治2年英和辞典を刊行したり、硬貨の信用性を高めるため金銀分析所を設立。
次に目を付けたのは鉱山経営でした。
海外で金銀の習得方法を身につけた五代。
考えたのが、休眠状態の鉱山を手にいれ大きな利益を生む事でした。
最初に手掛けたのは奈良県の天和鉱山や半田銀山などの再開発を手掛け多くの富を得ました。
明治6年1月には弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立します。
その他にも色々なことに挑戦し、商売の才能を開花させました。

明治3年(1870年)3月  日本で初めての英和辞典を出版
明治9年(1876年)9月 製藍業「朝陽館」設立(西南戦争の軍服を染めた)
明治9年(1876年)11月 堂島米商会所開設
明治11年(1878年8月  大阪株式取引所(現大阪取引所)
明治11年(1878年)9月 大阪商法会議所(現 大阪商工会議所)
明治12年(1879年)11月 大阪講習工業所(現大阪市立大学)
明治14年(1881年)3月 大阪青銅会社設立(現住友金属工業)
明治17年(1884年)5月 大阪商船(現商船三井)
明治18年(1884年)9月 東京にて日本郵船会社(現三菱グループの中核事業)

 

これだけでも、今経済の中心にいるんですね。

 

Image

(商工会議所の五代友厚像)

他にも五代の斡旋により、明治の役人を大阪に招き、今後の政府の方針や参議就任等の案件に協議した大阪会議が有名です。

 

そこで大久保利通・木戸孝允・板垣退助らと交流を深めました。

特に木戸孝允や大久保は会議の前段階の話し合いから、五代の家(日本銀行大阪支店の辺りにあった)で寝泊まりをしていたそうです。

信頼がなければそこまでの関係にはならないのではないでしょうか?

 

これだけの事業を手掛け、日本の商業の先駆けとしてさぞかし左うちわで裕福な暮らしをしていたかと思いきや、実はそうではなかったんです。

 

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「名もいらぬ、地もいらぬ、ただ未来のために」

明治18年9月五代は、糖尿病で49歳の若さでなくなります。

多くの事業は展開したのにも関わらず、数百万の借金が残りました。

日本郵船会社を設立したころはほとんど視力も見えず、体調も悪化していました。

まさに命がけです。

 

それでも会社つくりに情熱を燃やしたのは、大阪や日本の未来のために何か残したい

その思いだけでした。

形を残せば後世の人が、レールを敷いてしっかり歩んでくれると信じたからだと思います。

 

五代の思いに一番よりそったのが、妻の豊子でした。

五代豊子

出典:五代友厚プロジェクト

 

友厚の死後豊子は、借金をすべて完済しています。

友厚が後世まで語り継がれるのも、まさに豊子の内助の功ですよね。

同郷の西郷隆盛ような、有名で華やかさはないけれど、日本の交易と商業の発展は、五代の努力なくしては語れません。

 

 

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【天外者てんがらもん】意味はなに?映画の由来や生涯を解説・まとめ

2020年12月に公開がきまった「天外者 てんがらもん」。

主人公の五代友厚は、日本の商業発展のために海外の知識を学び尽力された方でした。

自分は財をなさず、ただ未来のために様々な取り組みをされていましたね。

 

そんな友厚の功績を、映画にしたいと市民が立ち上がり、寄付金を募りながら7年の歳月をかけて、映画化される事になりました。

ここでの映画のコンセプトも、過去の遺産を映像として未来に残すでしたね。

ひとつ残念なのは、主役の三浦春馬さんがもうこの世にはいない事です。

 

三浦さんは3年も前から五代のオファーを受け真剣に向き合っていたと、監督は試写会で話していました。

 

3年前というと、三浦春馬さんが半年の留学を2ヶ月に変更し帰国したエピソードがありましたね。

『これはやっておくべき』という仕事。

と話されていたのは、この作品で間違いないでしょう。

 

三浦春馬さん本人も「自分の代表作にしたいと…」とおっしゃられていましたね。

 

そんな色々な思いがつまった「天外者 てんがらもん」。

 

私は歴史が得意ではないですが、五代さん・三浦さんの情熱や努力のパワーをもらいに、劇場にいってみようと思います。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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