こんにちはNarseです。
おちょんやんといえば、2020後期の連続テレビ小説 第103作として、11月30日から放送決定しましたね。
そのモデルとなったのが、上方女優の浪花千恵子さんです。
私もリアルタイムでは見たことはないですが、小さいころオロナインのホーローの看板を見たことがあって、それが浪花千恵子さんだったとあとから知りました。
浪花さんは松竹新喜劇の看板女優として一世を風靡した方のようなんです。
ここでは浪花千恵子さんの人物像や経歴・生涯までわかりますよ。
テレビ小説が始まる前の豆知識として、ご覧いただけると嬉しいです。
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【おちょやん】モデル浪花千栄子とは?どんな女優
浪花千恵子プロフィール
本名・芸名 | 南口キクノ(なんこう きくの)・浪花千恵子(なにわ ちえこ) 別名義:香住千恵子(かすみ ちえこ) |
生年月日 | 1907年 11月19日 |
没年月日 | 1973年 12月22日(66歳没) |
出身地 | 日本 大阪府南河内郡大伴村大字板持(現富田林市) |
ジャンル | 映画・ラジオ・テレビドラマ・舞台 |
代表作 | 『祇園囃子』『夫婦善哉』『太閤記』 |
出典元:ウイキペディア
浪花さんは人生でも波乱万丈の人生を歩みました。
浪花さんの女優人生とはどんなものだったのでしょうか?
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コメディエンヌから始まった女優人生
小さい劇団で女優を始めた浪花さん。
昭和5年に松竹家庭劇という、松竹傘下の喜劇集団に参加。
その後夫となる2代目渋谷天外とともに、松竹新喜劇を立ち上げました。
面白い要素もあり時には涙を誘う人情喜劇を売りにし、人気を博したのです。
昔はテレビみたいに取り直しもきかず、アドリブなども上手にこなし、舞台という緊張の中で看板女優になったのですから、すごい人である事は想像できますよね。
左が2代目渋谷天外さん。右が浪花さん
出典:ウイキペディア
今でも立ち上げに関わったお子さんたちが、泣いて笑って楽しめる伝統の松竹新喜劇を守っています。
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日本のお母さんと言われた由縁
オロナインのCMで有名な浪花さん。
実生活ではお子さんに恵まれませんでした。
そんな浪花さんがお母さんと言われたのはなぜでしょう。
きっかけはラジオドラマでした。
1952年1月放送のラジオドラマ「アチャコの青春手帳」で、吉本興業の人気漫才師であった花菱アチャコさんの母親役を演じ大ブレイクを果たしました。
出典元;KINENOTE
でも当時、浪花さんは45歳。花菱さんは55歳。
年齢は花菱さんのが上なのに見事に母親を演じ、日本のお母さんと呼ばれたなんて実力派の女優さんです。
その後も「お父さんはお人好し」で再共演。周りから夫婦でないかと噂されたほど仲がよかったそうですよ。
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映画やテレビで脇を固める個性派俳優に
1955年「お父さんはお人好し」が喜劇の神様とされた斎藤寅次郎監督により映画化され、徐々に映画やドラマに活躍の場を移していきました。
ただ主役級の役ではなく、脇役を中心に活躍されたそうです。
年代 | 『作品名』監督 | 役柄 |
1953 | 『祇園囃子』溝口健二 監督 | お君(お茶屋の女将) |
1955 | 『夫婦善哉』豊田四郎 監督 | おきん(千代子の職場の同僚) |
1957 | 『蜘蛛巣城』黒沢明 監督 | 物の怪の妖婆 |
1961 | 『宮本武蔵』内田吐夢 監督 | お杉(武蔵(又八)の母 |
1958 | 『彼岸花』小津安二郎 監督 | 佐々木初(主人公の幼馴染・京都の旅館の女将) |
1965 | 『太閤記』NHK大河ドラマ第3作 | なか(秀吉の母) |
1970 | 『細うで繁盛記』日本テレビ系列のドラマ | ゆう(主人公加代の祖母) |
年齢的なものもあると思いますが、女将や母親役が多いですね。
いまでいう名バイプレイヤーとして欠かせない存在だったのでしょう。
蜘蛛の巣城での妖婆…怖いですね。
そんな女優人生を生きた、浪花千栄子さんの出身地や幼少期はどのような暮らしだったのでしょうか?
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【おちょやん】モデル浪花千栄子は富田林出身!幼少期は?
浪花さんは苦労人とご紹介しましたが、子供のころはどんな生活だったのでしょうか?
富田林市の養鶏場の娘として誕生
出典:富田林市
富田林といえば、すだれが特産品の大阪のベッドタウンと言われる場所。
旧杉山住宅は重要文化財で、町全体が歴史的建造物です。
浪花さんは養鶏場の娘として、生まれました。
家庭環境は決して裕福ではなく、8歳の時に道頓堀の仕出し弁当屋に奉公に出されます。
8歳と言えばまだ小学校低学年。
たぶんその年齢だと、奉公先の子供の世話や家事の手伝いが主だったと想像できます。
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文字の読み書きができなかった
貧しさ故に小学校に通えなかった浪花さん。
字が読めない事ですごく苦労したそうです。
台本が読めないので、相当大変な思いをされたのではないでしょうか?
独学で読み書きを学び、理解できるようになったそう。
エピソードとして「驚」という字が読めず、字をそのままうつし人に読みを聞いたところ、「けいま」と読むのだと教えられた。
おかしい少し変だなとよく考えてみたところ、書き写す時「敬」と「馬」の間を離して書いていた事に気付いたそうなんです。
そうやつて一つひとつ覚えていった努力家だと言うことが伺えますね。
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【おちょやん】モデル浪花千栄子の下積み時代〜ブレイクまで
浪花さんは遅咲きの女優さんです。
浪花さんの女優人生もまた苦労続きでした。
小さな一座から映画の世界へ
道頓堀で女中奉公したあと、京都で女給として働いていた浪花さん。
18歳の時に知人の紹介で、村田栄子一座にい入り女優業をスタート。
その後一座は経営が傾き、東亜キネマという映画会社に入社。
その時香住千栄子と芸名をかえたのです。
最初は端役でしたが、努力を重ね1926年「帰ってきた英雄」で準主役に抜擢されました。
北大路欣也さんのお父さんである市川歌右衛門などに招かれ、映画界に邁進すると思いましたが、給料未払いのトラブルがおき映画界から身を引きました。
なんとも不運な人生ですね。
新喜劇旗揚げ後夫に浮気され離婚
浪花さんは前述したとおり松竹家庭劇に参加し、1930年に2代目渋谷天外と結婚しました。
なんとか喜劇を盛り上げようと、夫を支え看板女優として努力をし、結婚から18年後松竹新喜劇を夫婦で作り上げた浪花さん。
しかし悲劇はまた起こります。
1951年松竹新喜劇の新人女優九重京子と渋谷天外の間に子供ができ、離婚をし松竹新喜劇を退団しました。
子供がいなかつた浪花さんが身を引いたのでしょうか?
浮気は芸の肥やしといいますが、子供まで作るとなると夫である渋谷天外さんは、本当に女としては許せないです。
一時行方不明に。探しだしたのはNHKプロデューサー
新喜劇を退団したあと、静かに芸能界から身を引きました。
この時44歳。
同業者にも何も告げず行方がわからなくなったそうです。
浪花さんの芸をもう一度見たいと奔走したのが、NHK大阪放送局のプロデューサー富久進次郎。
何にもない時代に人を見つけ出すのは大変な事だったと思いますし、それだけ浪花さんに魅力があったのでしょうね。
説得されて、復帰したのが「アチャコの青春手帳」でした。
そこからは芸の幅が広がり、名脇役になったのは前述したとおりです。
【おちょやん】モデル浪花千栄子のCM
浪花さんと言えばオロナインH軟膏が有名ですね。
本名が南口キクノだった事から軟膏効くのでCMに採用されたという噂が・・・そうであればオロナインさんも画策していたという事でしょうね。
「オロナイン軟膏塗ってます。浪花千恵子でございます」から始まる語り口でたちまち人気になりました。
こうみるとやっぱりお母さんぽいし、安心しますよね。
出典:関西まちかど写真
こんな風に看板がありましたよね。
懐かしいです。
昔はこういう女優さんや俳優さんの看板がCM替わりとして街のあちこちにありましたよね。
他にも有名なものがあるので、見てみましょう。
ではボンカレーのホーロー看板の画像をどうぞ~(^3^)/#おひるーな pic.twitter.com/U9aHEmA1Jp
— 糸目今日子 (@itome100028) October 17, 2019
大村崑のオロナミン看板がバス停留所の待合室に貼ってある、というイメージある。大村崑、よく相撲観にきてるのが中継に映ってるな https://t.co/WfYUvQh3lG
— けもの人 (@sugoidobutsu1) September 2, 2017
ボンカレーは松山容子さん オロナミンCは大村崑さんですね。
いずれも昭和に活躍した有名な俳優さんたちです。
私の子供のころはこんなホーロー看板がたくさん貼ってありました。
子供心に印象に残っています。
今は昭和の産物となってしまいましたが、やっぱり味がありますね。
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【おちょやん】モデル浪花千栄子とは?どんな女優・まとめ
2020年後期のテレビ小説のモデル浪花千恵子さんは、遅咲きの女優さんで日本のお母さんでブレイク。
子供のころから苦労が絶えず波乱万丈の人生でしたが、晩年は役に恵まれCMでも人気者になりました。
その浪花さんの役を杉咲 花さんが演じます。
まだ若い杉咲さんが、どんな風に浪花さんの人生を演じるのか、楽しみですね。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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